1951(昭26)年10月30日:東京都議会財務委員会でオートレース場建設促進に関する請願が採択され
同年12月22日の都議会本会議で
大井、羽田、洲崎、江戸川、武蔵野の5候補のうち
大井競馬場にオートレース場を併設する事が議決された
元々、大井レース場の敷地は東京都競馬株式会社が大娯楽場として発展させようという意図のもとに
競馬場のほかに競輪場、オートレース場を建設しようとしていたものであった
競輪は都内で京王閣、後楽園と相次いで開設されたが
競輪場建設を目指す大井では肝心の競馬場の建設が遅れていた
やがて都内3箇所の競輪場建設が通産産業省から許可され大井も競輪場の準備に取り掛かるが
先に立川市が競輪場建設を申請したことから大井の競輪場建設はうたかたと消えたのである
さらに競馬関係者は馬場での併設を問題に上げ反対運動をも起こした
そこで最新の独立走路の建設を検討し
新レース場を建設することが決定した
当時のオートレース場はいずれも土面走路(ダート)であったが
周長500mアスファルト舗装で勾配の緩やかなセミバンク式とすることを決定し
全国初の舗装走路と都心にあるオートレース場ということもあって
関係者の格別な期待を寄せられて開場を迎えることになった
1954(昭29)年10月29日:大井オートレース場が開場される
(舗装路:周長:500m、幅員25m、曲率半径:52m)
しかし
1日平均の売上は590万円、入場者数:3600人という不振ぶりであった
これらの原因は、選手が舗装走路に不慣れのためタイムも思うように上がらず
レースに迫力を欠き興味が薄れたためと思われる
1958(昭33)年:この頃から関係者の地道な努力が報いられ
「ダートの川口」「舗装の大井」の双璧と呼ばれ、舗装走路の本領を発揮しはじめた
<昭和34年度・東京都主催・連勝単式勝車投票券>
1969(昭44)年1月:美濃部東京都知事が都営ギャンブルの廃止声明を打ち出し
選手、従業員他関係団体に補償金を支払う事で合意が得られ段階的に廃止する事が決定された
大井オートレースも1日2レースの削減と年間12日の開催日数の削減が行われ
ついに
1973(昭48)年3月22日:この開催を最後に姿を消した
東京都品川区勝島
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